菅義偉官房長官の学歴と経歴を調べました!
生い立ちから官房長官、そして総理候補になるまで苦労の人で、私たちの知らない凄さがありました。
今回は、菅官房長官の生い立ちから横浜市議、そして現在の総理候補になるまでをまとめました。
菅官房長官の生い立ち
この投稿をInstagramで見る
1948年12月6日、秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現、湯沢市秋ノ宮)に農家の長男として誕生。
4人姉弟の6人家族。
- 父(菅和三郎)・・・満鉄職員、秋の宮いちご生産出荷組合組合長、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任
- 母・・・元教員
- 姉2人・・・高校教諭
- 弟1人・・・??
菅官房長官の学歴
- 雄勝町立秋ノ宮小学校(現、湯沢市立雄勝小学校)
- 雄勝町立秋ノ宮中学校(現、湯沢市立雄勝中学校)
- 秋田県立湯沢高等学校(第3学年では進学組に所属)
父から農業大学校への進学を勧められるが断り、高校卒業後、集団就職で上京。
2年間、板橋区の段ボール工場で過ごす。
コツコツと働いてお金を貯め、当時私学の中では一番学費の安かった
法政大学第二部法学部政治学科に入学
大学時代は、空手をやっていたそうですよ!
菅官房長官の経歴
- 1973年:建電設備株式会社(現、株式会社ケーネス)に入社
- 就職後、参議院選挙を手伝う
- その時の働きぶりが素晴らしく、いろいろな政治家事務所から誘いがくる
- そして、小此木彦三郎事務所に秘書と働くことになる(11年間勤務)
菅官房長官が横浜市議になるまでは苦労の人!その凄さとは
この投稿をInstagramで見る
大学も自分一人の力で進学、卒業した菅官房長官ですが、秘書時代以降も、なかなか真似できないような苦労をされています。
秘書を務めていた菅氏のもとに引退する市会議員から、自分の選挙区を譲るから後継者になって欲しいとの話が来る。
その選挙区には、若い2人の自民党の市会議員がいて、普通なら嫌がるところを、本当に喜んで、菅氏の説得までしたそうです。
しかし菅は、その話を断り、別の選挙区から立候補する決意。
その選挙区は、有力議員のいる、誰からもここから出馬して下さいと言われていない西区で、当時は、売上税の問題で自民党に逆風が吹いていた。
当時、子供は3歳、1歳、1ヶ月と幼子を抱えた中での出馬。
誰もが、勝ち目がないからと猛反対するような選挙区から出馬した菅氏ですが、本人の意志は固く、昭和61年10月1日に、11年勤めた小此木事務所を辞める。
この投稿をInstagramで見る
ここからは、同じく元小此木事務所で秘書をしていた橋本昇さんの話をご覧ください。
いかに、菅官房長官が苦労人か、そして誠実な人か分かります。
辞めたその日から、菅氏は、ひとりで西区の家を一軒一軒まわり始めました。
一日300軒、4月の選挙前までに3万軒をまわり、6足の靴がダメになりました。
ある日、菅が行った家は、別の候補者を支持する家だったそうですが、彼の靴を見て、なんでそんなボロボロの靴を履いているのか聞いたそうです。
そして、事情を知った家の人は「これだけの苦労をしてるのだから、菅さんは、必ず当選するよ」と言われたそうです。
お昼に蕎麦屋に入った時、菅は一度倒れました。一緒にいた人が休んだ方がいいと言ったら、菅は、平気ですと言って、また一軒一軒、家をまわったそうです。
最初は自民党の公認も貰えず、無所属でした。やっと公認が貰えたのは選挙の直前だったと思います。
選挙前に、菅の奥さんの真理子さんに会った時、立候補に反対する私が「お金も、地縁も、地盤もないゼロからの選挙を、なぜ主人にやらせるのか」と言ったら、
彼女は「主人には支援して下さる方が、きっと多く出てきて頂けると信じています」と伏せ目がちに、謙虚な消え入りそうな声ながら、それでもきっぱり言ったのを覚えています。
控えめで、いつも菅のことを影で支えていた彼女ですが、本当に彼女の言うとおり、
独りだった菅のともに、だんだん人が集まり、その輪も大きく育って行ったのです。
お金も個人の献金が集まり、なんとかなってしまった。
そして、誰も当選しないと思っていた選挙で、菅は当選してしまいました。
菅の原点は、この選挙にあると思います。地盤を譲ってもらって楽な選挙をしていたら、今の菅は、ないと思います。
「お金が無くとも、地盤が無くとも、強靱な意志と弛まぬ努力があれば、何事も成し得る」という彼の哲学の原点になったと思います。
今の国会でも、自民党の長老や派閥や地方の有力議員を敵に回しても、都市選出自民党議員の意見を勇気を持って主張し、必ず実現させるという行動力も、あの時の経験からだと思います。
菅は照れ屋で、自分の苦労や努力を人に見せるのを嫌うようですが、ある人が言っていました。「菅君ほど、人の気持ちと世の中の仕組みが分かる政治家はいないよ。これは、彼が人の何倍もの苦労と努力をしてきた証拠だよ」と。
引用:すが義偉オフィシャルブログ
このときの経験から菅官房長官の座右の銘は「意志あれば道あり」となったようです。
普通、勝ち目もないような選挙区から立候補って、なかなかしないですよね。
しかも、当時3人の子供たちを抱えての出馬です。
相当な覚悟と決意があったでしょうし、そんな菅氏のことを信じて影で支えてこられた真理子夫人もただただすごいですよね。
こんな苦労をしてきたのに、苦労話や自慢しない所も、かなり好感が持てますよね。
平気な顔して、陰では今も努力されているのではないでしょうか。
菅官房長官の生い立ちから横浜市議になるまで苦労人の凄さとはまとめ
菅官房長官の生い立ちから、横浜市議になるまでの凄さを簡単ではありますが、まとめてみました。
横浜市会議員は2期務めたのですが、当時、国に財源や権限を握られ、国が中心となった中央集権体制に強く疑問をもち、
地方分権国家の実現を目指し、国政へ挑戦するため、市会議員を辞職し、浪人生活を経て、衆議院議員総選挙に、初挑戦ながら初当選した菅官房長官。
そこからは、総務副大臣、総務大臣、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣、自民党幹事長代行を経て、
2012年第2次安倍内閣の発足に伴い、内閣官房長官に任命され
在職日数が歴代最長の官房長官になり、現在は総理候補として動いています。
勝手に、菅官房長官の人生を振り返って見ると、本当に努力と行動の人ですよね。批判する人はもちろんいますが、人徳がある人物ではないかと個人的には思います。